daily

 日々のことをおもむくままに綴っていきます。

2011.06.22

ろくろの前で


    

ろくろに向かう時、
まずは大きく深呼吸。
そして、空を見ます。
あるときは、流れる雲を感じます。
あるときは、なびく草木を
そして、あるときは水が流れる大木を

ろくろを回す時、
「無」には程遠いけれど
「自我」を捨てるようにしています。

土を上げる時、
丹田に力を入れます。
そこにだけ意識をします。

「私」が「土」に少しだけ
乗り移ったような気がします。
これは、あくまでも気がする、だけですが。

回っている土を見ながら
回っているのがどっちか
分からなくなる時があります。
これは不思議。

あとは、
美しい線を意識します。
きっと、それが
草木や山の稜線や木の年輪
なのかなぁ、と思います。


↑上へ戻る




2011.06.15

ミツバチに感謝
ミツバチに感謝


    

花盛りの季節
働き蜂がいい働きをしてくれたお陰で
芳醇なハチミツが頂けます。

近くで養蜂をされているお宅へ
蜜絞りの見学をさせてもらいました。

今のハチミツは
野ばらやドクダミの花の蜜
蜜蜂をこよなく愛している
齢80歳越えの老夫婦が
楽しんでやってみえます。

ひとつの箱に100万匹という無数の働き蜂。
こつこつと摘んだ蜜を
私たち人間が頂いてしまうのは
申し訳がない気がしてしまいました。
しかし、
蜂が蜜を吸う大事な役割があります。
それは、草木の受粉を助けること。

秋冬の花のない季節には
おじいちゃんがちゃんと蜂に餌をあげている
と聞いて、一安心。

それでも
自然の営みを身近で感じ、
食物を頂く、大切さを改めて感じました。

おまけで
蜂に刺された手が3倍にも膨れ上がり
3〜4日かゆくて仕方なかった。涙
蜂も命懸けですからね。


↑上へ戻る




2011.06.14

水無月
水無月


    

今日は梅雨の中休み。
さわやかな風の吹く気持ちのいい日でした。

家の前の田んぼの苗は
雨の降るたびに
青々と成長しています。
今年はカエルの合唱の期間が
短かったような気がします。

秋になると
ずっしり実についたこうべを垂れて
黄金色に色づくのでしょう。

そんな風景の変化を
感じられるのがとても楽しいです。

我が家の庭に植えた
麦もそろそろ収穫時です。
「麦秋」の季節です。
次回は成長記をのせたいと思います。





↑上へ戻る




2011.06.07

自分にできることC


    

そんなに敏感に感じ取れる
タイプではありませんが
宮城県(私の行った地域では)
どんよりマイナスな気は
流れていないと感じました。

むしろ、悲しみの上に立つ
被災者の前向きな笑顔
一心に手助けをしようとするボランティアの
いい輪が広がっていると思いました。

ただ、気がかりなのは
子供たち。
雄勝町の避難所で唯一いた少年の
悲しげな後姿を忘れることができません。
もともと、子供たちは
悲しみや恐怖をどう表現したいいのか分からずに
心に傷を負った子が後々つらい思いをする、
と聞いていました。
あの少年は(5歳くらいだったと思う)は
津波を見たのだろうか・・・
もしかして、人間の死に際にも遭ったかも
しれないなど、考えてしまうと
やりきれない思いです。

未来の日本をつくっていく今の子供達に
30代の私たちが
いい流れでつないでいってあげたい、
そう思わずにはいられません。

あと、
雄勝町の方がおっしゃっていました。
「避難所の何もない生活をして、分かった。
今まで物が溢れて贅沢しすぎたんだね・・・」
という言葉。

つらい思いをしていて更に
自分を省みる謙虚さに
しばし言葉を失くしました。
けれど、これは全国民ひとりひとりが
ほんの少し、気付ければできることではないか、
と思うのです。
ライフスタイルの変換の時だと私は思います。


今、わたしにできることは
この体験をたくさんの方に伝えること
そして忘れないために長期的な支援をすること
もちろん、今目の前にあるやるべきことに
向き合うことですかね。
やっぱりありきたりになってしまいますが、
まずは器用に小回りする、せかせかスタイルから
ひとつひとつ丁寧に生きる、ゆったりスタイルに
自分が変えていけたらなぁ、と思います。



↑上へ戻る




2011.06.07

自分にできることB"


南三陸町でのボランティアの作業内容は
「思い出写真の展示会」のスタッフでした。

先週から始まった
写真の展示会はもう終わり。
駆け込みでたくさんの方が訪れるだろう、と
ボランティアスタッフも多めに配置。

ちなみに、
南三陸町では、被害に合われた自宅は
明暗分かれていて
(全壊か被害なし)
泥の掻き出しや家具の移動、などは
ほとんど需要がなかったです。

地域によって様々であることは
行ってみないと分からなかった。

廃校になった木造の小学校で
思い出の品や写真がきれいに
展示されていました。
写真の洗浄や展示にもたくさんの
ボランティアスタッフが
携わってきたとのこと。
その展示会にも約3千人の方が
一枚でも、と探しに訪れたそうです。

教室全てにびっしりと貼ってある
写真やアルバムをひとつひとつ
見て回る大変しんどい作業。
途方にくれる数でも、
全体の2割しか展示がされてなく
いかに被害が甚大であったか、
と落胆しました。

着の身着のまま、避難した方にとって
持ち物全てを失った時に
出てくる「思い出」がいかに重要かが
分かった気します。
過去の楽しい記憶すら
何もかも失ったら消えてしまいそうな時
はじめてそのときの記憶とリンクさせる
その証があることが
生きてきたことに繋がるんだな、と。

思い出を持ち帰る方は全体の3分の1。
何とも言えない感情が常に心にありました。

そして一緒に探してあげられない
もどかしさも感じました。

今から思えば、
「何か手助けがしたい」という自分本位な考えで
いたのかもしれません。
一緒に泣いてあげることはできても
本質的な部分で
同じ悲しみを分かち合えることは到底できない、
前提にそれがあったとしても
それ以上踏み込むことが中途半端にしかできない
それなら踏み込まないでいるほうが
その人のためにはいいのかもしれない、
でも何かができれば、と
その思いは今も葛藤の最中です。

自発的で積極的なボランティアスタッフの方が多く
その空気はとても気持ちの良いものでした。

ボランティアとは
自分でなくてはできないものではなくて
自分がやらなくても誰かがやってくれるし
それでも向かう方向が同じ思いなら
時間も労力もそして報酬も惜しまずに
できるものです。
行く前は
「自分に何ができるのか」と
重く考えすぎていましたが
自分ひとりではなにもできないんです。
自分ひとりのちっぽけな力を精一杯発揮したって
人っ子ひとり救えることができない。
けれど、同じ思いの方に
協力することで
もしかしてたくさんの方の一部の部分を救うことが
できるのではないか、と思うようになりました。

2日目、3日目は
ボランティアセンター(略してボラセン)
の近くにある自衛隊が提供している
お風呂に初体験。
南三陸町は水道が復旧していなく
被災者に交じって入らせてもらいました。
あたたかいお湯が疲れを洗い落としてくれました。



↑上へ戻る

2011.06.07

自分にできることA


その後、車を走らせ
南三陸町へ。

「まだまだ人力が足りない」そんなボランティア
経験者の言葉に感化され
偽善者だろうか、役に立つだろうか、
とか不安はあったけれど、一般市民の私でも
その手を求めている時だと思いました。

ネットで調べたところ
どこも「ボランティア受付中止」となっている中
南三陸町だけは「大大募集」となっていたので、
災害ボランティアセンターに電話、すぐに繋がり
心から一人でも多くの手助けを要している気持ちが
伝わり南三陸町へ行くことは決めていました。

石巻市から海沿いを走りました。
どこまでも続く被害の爪あと。
そして、壊滅的被害の南三陸町でも
目を覆いたくなる景色が広がっていました。

信じられない、
こんな風景をまのあたりにするなんて。
いつまでたっても受け止められないでいた。

そんな中立ち寄った
青空セブンイレブン。
被災された家族が元気よく営業していました。
あぁ、こんな中でも希望を持っている、
そんな前向きなものが伝わってきました。

いくら映像で何回もみた場面でも
まだ外から来た私は衝撃で動けなかった。

でも、被災者の方は震災の後、約3ヶ月も
この場で生活し、日常を送っている。
そこで生きようとしているんだ、と思ったら、
自分の気持ちがどうこうというより
その前向きな気持ちに寄り添い
応援したいって思いに変わりました。

災害ボランティアセンターのキャンプサイトで
テントを張り、自炊。
初めてのキャンプ生活、慣れない作業で、
どうなることかと思ったけれど何とかなるものですね。
この日は1時間ほどかけて隣町登米市の温泉へ。
帰って、野菜いっぱいしょうがたっぷりの
あったかうどんを食べて、就寝しました。



↑上へ戻る

2011.06.07

>自分にできること@


6月3日〜5日
被災地へボランティアに行ってきました。

1日目は石巻市雄勝町のひとつの避難所へ
物資を運びました。

雄勝町は石巻の町から車で1時間以上かかる
辺鄙なところ。
行く途中の北上川堤防は津波で崩壊され
道路が寸断され、がたがたの仮道路を通るしか
ありませんでした。
目の前の大きな橋は途中で崩れて何もありません。
震災後は孤立した地域だったと思います。

こちらの避難所は森林公園の施設で
約35人の方が避難しているというところ。
物資を運んだだけの私たちに
「本当にありがとう」と何度も言ってくれました。
今回の災害で全国の人に助けられ、支えられ、
本当に感謝の気持ちでいる、と言われました。

そして「こんなにつらい思いは自分たちだけで充分」
「もう、誰もこんな思いはしてほしくない」と。
当事者の前で見せてはいけない、
と言い聞かせてはいたけれど
流さずにはいられず涙が溢れてきました。
どんな、恐ろしい思いをしたのか、
どんな、悲しい場面にあったのか、
どんな、つらい日々を送ったのか、
どんな、不安な夜を乗り越えたのか、
そして、なお、今も続く悲しみや恐怖や不安。
その想像もできない傷の深さに
言葉を失くす、しかありませんでした。

でも、そんな私たちを察してか、
「そんな中でも私たちは明るいよー!」
と東北なまりのあたたかい言葉で
言ってくれました。
その笑顔に本当に本当に救われました。

ありきたりではありますが、
被災者の笑顔に逆に励まされる、なんて。
よく聞く感想だけれど本当だなって思いました。

人間支えあって生きていて、
まわりに同じ悲しみを抱いた人がいることが
心を分かち合え、励まし合えるんですね。
徐々に仮設住宅への入居が始まる中、
集団生活から一人の時間が増え、
あの恐怖を考える時間が増えて
つらい思いをされることを懸念されていました。


深い悲しみを乗り越えざるお得ない方々の
強さを感じながら、
それでもその強さはもしかして脆いものなのかも
しれない、とも。

深緑の輝く
清らかな沢のほとりで
美しい自然や
共に生活している動物たち
(うさぎや猫や鹿、にわとりが飼育されていました。)
がこころのぎすぎすした部分に
隙間を与えてくれるだろう、と
信じたい気持ちです。

帰りに
今も変わらず散乱している場所へ行き
手を合わせました。
山の裾にある守り神にも祈りました。
瓦礫の山の中にも
芽吹く命の花が悲しげに揺れていました。
それでもその花が光にも見えました。

次へつづく・・・




↑上へ戻る

Copyright(C)2009 Yumeji-gama All Rights Reserved.
inserted by FC2 system